「周りと同じこと」に
意味はない。
「ひとり」というと、孤独感とか、さびしさとか、マイナスなイメージを持つ人が多いかもしれません。SNSがこれだけ発達して、みんなが人とのつながりを求めているのだから、当然のことだと思います。
けれど、僕自身は、ポジティブに「ひとり」という状態をとらえています。人生の重点的戦略にしてきたといっても過言ではありません。
「ひとり」を大事にしてきたからこそ、今の僕があります。
勉強にも集中できたし、公認会計士の試験にも合格できたし、独立・起業も順調にいって、お金と時間の自由を手に入れられた。どれも、「ひとり」じゃなければ、まず、成し遂げられなかったでしょう。
とはいっても、子どもの頃から「ひとり」を意識してきたわけではありません。
「ひとり」を意識するようになったのは、中学2年の頃。両親の離婚がきっかけでした。父と兄と僕という、男3人暮らしがはじまってから、なんでも「ひとり」でやっていこうという気持ち、つまり、自立心がムクムクと芽生えてきたのです。
ほかの家庭のことはわかりませんが、僕の家の場合、母親がいなくなった途端、何もかも自分でやらなければならなくなりました。父が、僕と兄を男手ひとつで育ててくれたことは間違いない。けれど、家族として固まって支え合っている、というより、自立した父親と、自立した2人の子どもがひとつ屋根の下で生活している、という家庭。否応なく「精神的に自立するしかない」という感じでした。
父はカメラマンで写真館を経営していましたが、どうひいき目に見ても、流行っているとはいえない状況でした。時どき店に記念写真を撮りに来る人がいて、あとは地域の学校行事があると撮影に行く程度。
父が口に出すことはなかったけれど、中学生だったから、なんとなく家の経済状況もわかってしまい、「何とかしなくちゃ将来がヤバイ。経済的に自立しないと生きていけない」と思うようになりました。
当時、親が離婚している同級生は周囲にいなくて、みんなにとって当たり前のものが、僕だけない、という感覚でした。たとえば、手作りの弁当。父に弁当を作る余裕がなかったから、みんなが弁当を食べている時、僕は買ったパンをかじっていました。
最初の頃こそ「手作りの弁当、食べてみたいな」とうらやむことがありました。でもすぐに、「食べものは、おなかを満たすもの。おなかいっぱいになれば、弁当じゃなくてもいい。パンでも生きていけるんだ」と考えが変わりました。
そこから僕は、次の仮説を見つけました。
「周りと同じこと」に意味はないんじゃないか?
これはその後に仮説から確信へと変わり、僕は「群れること」から自立しました。
家庭環境で無理矢理「自立」を強いられた感は否めないし、つらい時期ももちろんありました。でも、結果的にはこの環境が僕にはすごくよかった。
中学時代に「精神的自立」や「群れからの自立」を経験し、「将来は経済的自立が必至」と思えたことは、僕の人生に「ひとりでも平気」という、最強の軸を作ってくれたからです。以来、僕の人生は人に左右されることはなくなりました。
(※この連載は、毎週木曜日・全8回掲載予定です。次回は4月26日掲載予定です。)
更新日:2018/4/19